沖縄復帰40年

 5月15日は沖縄復帰40年の日です。
 5月10日から14日の日程で沖縄県で取り組まれた「復帰40年・沖縄平和行進」に、長野県護憲連合として20人の代表団を派遣しました。20代・30代の若者中心の代表団です。
 40年の節目となる今年の平和行進には参加したかったのですが、総務委員会の行政視察等があり、今年も段取りをして見送る役回りとなってしまいました。

沖縄現地で。長野県護憲連合の平和行進代表団


 米軍基地がない長野県民が、沖縄の基地問題に、沖縄県民の悲願に、どう向き合うのかが問われています。
 沖縄現地の新聞社、「琉球新報」と「沖縄タイムス」の15日の『社説』を勝手に転載します。14日付けの信濃毎日新聞の社説(読まれた方は多いと思いますが)も転載します。

 5月22日には、沖縄平和運動センター事務局長の山城博治さんを招き、長野・松本で街頭宣伝、伊那市で県集会を計画しています。18時半から伊那文化会館です。
 復帰40年の沖縄の今をともに考えたいと思います。

【5月15日琉球新報・社説より】復帰40年/自立の気概持とう 国の空洞化、無策を憂う
 米国統治下に置かれていた沖縄が1972年5月15日に日本に復帰してから、満40年を迎えた。
 県民が「復帰」に込めた「基地のない平和な沖縄」「日本国憲法の下への復帰」の理想は今なお、実現していない。
 沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中し、基地から派生する事件・事故、爆音被害によって、県民の生命や基本的人権が危険にさらされ続けている。理不尽な状況を招いたのは沖縄ではない。問われるべきは、民主主義や憲法が機能しないこの国の空洞化、為政者の無策ぶりだろう。
「基地依存」は先入観
 米軍普天間飛行場の移設問題について、県民は知事選など各種選挙を通じて繰り返し名護市辺野古への移設を拒否してきたが、日米両国は民意を無視し続けている。
 この国の官僚は垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの本土への一時配備について、「検討する」としながら地元から反対の声が上がるや「理解が得られない」とあっさり引っ込めるありさまだ。
 野田佳彦首相に問いたい。民意無視と危険極まりないオスプレイの配備は、沖縄差別ではないのか。
 琉球新報の最新の世論調査によると、多くの県民が道路、港湾の着実な整備などを背景に「復帰」を肯定的に評価する一方で、沖縄振興の重点として「米軍基地の整理縮小と跡地利用」を求めている。
 県民総所得に占める基地収入の比率は、復帰時の15・5%が2009年度には5・2%まで低下した。本土側から「基地がないと沖縄経済は立ち行かないのではないか」といった声が絶えないが、これは先入観以外の何物でもない。基地返還前と返還後で経済効果が十数倍となった那覇新都心地区や、同じく170倍超の北谷町美浜・ハンビー地区の発展ぶりを見れば納得いくはずだ。沖縄は既に基地依存経済から脱している。
 今後の沖縄振興の指針となる仲井真県政の沖縄21世紀ビジョンも過密な米軍基地を「沖縄振興を進める上で大きな障害」とし、沖縄経済の阻害要因と位置付けた。
 沖縄の県民所得は全国平均の7割、完全失業率は2倍近くで高止まりしたままだ。「基地の整理縮小と跡地利用」と雇用創出を並行して進めなければ、沖縄の自立的発展はおぼつかない。
 幸い沖縄の要求をほぼ満たす形で改正沖縄振興特措法と跡地利用推進特措法が成立した。本県はこの「沖縄2法」と本年度にスタートする新しい振興計画に基づき今後10年間、自立的発展を目指す。
人材育成に注力を
 経済界や個々の企業には、沖縄の自立的発展の主役としての気概を期待したい。いずれ復帰特別措置にも終わりの時が来る。税制優遇措置なしで成長と雇用を維持できる経営基盤を築かねばならない。
 健康産業や観光業界で既に手掛けているように、成長するアジア市場を見据えた商品開発や販売促進活動の強化は各業界で急務だ。
 県の「沖縄21世紀ビジョン基本計画」案では、新振計の基軸の筆頭に「沖縄らしい優しい社会の構築」を定めた。一括交付金を活用し、子育て支援や福祉、環境などソフト事業を想定している。従来の沖縄振興策がハード偏重だけに、ソフト重視で均衡を図るのは当然だろう。県や市町村にとっては、自治力の腕の見せどころだ。
 沖縄が日本とアジアの懸け橋として羽ばたいていけるか否かは、人材の確保が鍵だ。沖縄の大学進学率は36・9%(2011年度)で全国平均の54・3%と開きがある。県内の生活保護世帯の中学3年生(2010年3月卒)の進学率が74・4%にとどまり、県内全体より約20ポイントも低い。
 沖縄の前途にとって危うい状況だ。家庭の経済格差が教育格差につながる悪循環は、断ち切らねばならない。県民所得が低い本県では、他府県以上に人材育成への支援に力を注いでしかるべきだ。関係機関は人材と雇用なくして沖縄に未来はない、と肝に銘じてほしい。

【5月15日沖縄タイムス・社説より】[復帰40年]普天間を解決する時だ
 1965年8月19日、佐藤栄作首相は現職の総理大臣として戦後初めて沖縄を訪れた。那覇空港での歓迎式典で、沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本の戦後は終わらない、との歴史的メッセージを発した佐藤氏は、こうも語っている。
 「私たち国民は沖縄90万のみなさんのことを片時も忘れたことはありません」
 のちに行政主席、県知事となる屋良朝苗氏は日記に記している。「総理を迎えた時は正直言ってさすが涙が出た」
 復帰が実現したのはその日から7年後のことである。
 72年5月15日。40年前の復帰の日、東京と沖縄で二つの記念式典が開かれた。対照的だったのは、佐藤首相と屋良県知事の式典での表情である。
 政府にとって復帰を実現することは、何よりも戦争で失った領土を外交交渉で取り戻すことを意味した。
東京での式典で佐藤首相は、高揚感に満ちあふれた表情で万歳を三唱した。
 だが、那覇の式典に出席した屋良知事の表情は終始、硬かった。「復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望がいれられたとはいえないことも事実であります」
 あの日も、那覇市民会館と隣の与儀公園で、復帰記念式典と抗議集会が並行して開かれた。40年後のきょうも、同じ日に式典と抗議集会が開かれる。
 基地問題をめぐる過重負担の構図はこの40年間、ほとんど何も変わっていない。
 復帰から2009年3月末までに返還された米軍基地は、面積にして約19%にとどまる。この間、本土では約59%が返還されたのに、沖縄の負担軽減は遅々として進まない。
 沖縄タイムス社と朝日新聞社が4月に実施した県民意識調査によると、沖縄の基地が減らないのは本土による沖縄差別だと思うかとの問いに対し、「その通り」だと答えた人が50%に上った。
 「基地の現状は不公平だ」「本土の人たちは沖縄をあまり理解していない」―そう考える人たちが県内で急速に増えている。沖縄の人たちのまなざしが厳しくなっただけではない。本土の側の沖縄理解も、急速に変わりつつある印象を受ける。
 この40年を通して本土と沖縄の心理的な距離は、今が一番開いているのではないだろうか。基地問題をめぐって「心の27度線」が浮上しつつある。危険な兆候だ。
 米軍普天間飛行場の辺野古移設を盛り込んだ06年の日米合意は、死文化した。辺野古移設計画を断念し、早急に日米交渉を始めるべきである。普天間の固定化は許されない。
 沖縄を軍事要塞(ようさい)化し日米で中国を封じ込めるという発想は、米中関係の奥深さや国境を越えた「ヒト・モノ・カネ」の移動、市民レベルの文化交流など、国際政治の潮流を無視した一面的な考えである。冷戦思考を引きずっていては、沖縄の未来を展望することはできない。
 沖縄の民意は変わった。基地依存・財政依存からの脱却を目指した「沖縄21世紀ビジョン」の将来像は、多くの県民に共有されており、これからの沖縄振興は、この自立の動きを後押しするものでなければならない。

【5月14日信濃毎日新聞・社説より】沖縄復帰40年 溝を埋める取り組みを
 「沖縄県と本土の間にある溝がどのようなものなのか、長野県に来て見えてくるようになりました」
 松本市の信大医学部で学ぶ比嘉大(ひがゆたか)さんの言葉である。県民のほぼ4人に1人が犠牲になった先の沖縄戦で、米軍が最初に上陸した沖縄本島中部の読谷村(よみたんそん)出身だ。
 沖縄が本土に復帰してあす40周年を迎える。戦争の負の遺産として、この島には在日米軍専用施設の74%が集中し、人々の暮らしにのしかかる。復帰後に生まれた若者を通して、本土との溝など沖縄が抱える問題を考えたい。
<本土との距離>
 比嘉さんが故郷を離れて6年。時折、これが同じ国か、と思うことがあるという。米軍機の爆音が聞こえない静かな日常に慣れるほどに、違和感を感じる。
 復帰しても解消されない本土との溝を埋めていくにはどうすればいいか―。私たちは沖縄の声にもっと敏感になる必要がある。
 比嘉さんが信大に入って感じたのは、友人の多くが基地問題に関心が薄かったことだ。修学旅行の平和学習などで沖縄の歴史を学んだ人も多いはずなのに、沖縄に行くとしたらどこが楽しいか、という質問ばかりだった。
 一昨年5月、もやもやしていた比嘉さんの背中を押してくれる出来事があった。元米海兵隊員で沖縄在住の政治学者ダグラス・ラミスさんの講演である。新入生に平和への意識を高めてもらおうと企画したものだったが、講演会を主催した実行委員長の比嘉さん自身が衝撃を受けた。
 ラミスさんは平和憲法と日米安全保障条約という対立しそうなものが共存してきたことについて語った。9条の下で日米安保を機能させるために沖縄が必要とされてきた面がある―。このような指摘があった。
<憲法と安保の矛盾>
 「矛盾を解決しない方が都合がよかったのではないか。だから政府はずっと沖縄と正面から向き合おうとしなかった」
 比嘉さんはこう思った。復帰後も沖縄の負担がなかなか減らない理由の一つにみえた。
 その後、意識的に動き始めた。大学では医療に関する問題を学習するサークルに所属する。全国のサークルが一堂に集まる催しが毎年夏に開かれる。比嘉さんはここ2年、基地問題など沖縄に関する分科会の開催を申請し、コーディネーターを務めている。
 参加者は毎年20人ほど。思った以上に関心があるとは感じたものの、安保条約は知っていても日米地位協定となると知らない学生も多いことに驚いた。
 地位協定は安保条約に基づき、日本における米軍の法的地位などを定めたものだ。この協定によって、米軍人が関わる事件・事故に絡み、沖縄の人が泣き寝入りするケースが少なくない。
 沖縄で暮らしていたころは日常生活の中で地位協定の不平等性や問題点を感じることが多かっただけに、比嘉さんには沖縄の抱える問題を本土の人が深く理解しているとは思えなかった。
 溝の深さを認識する一方で、変化も感じている。米軍普天間飛行場の移設問題が迷走し、固定化の懸念が強まる中、沖縄県民の多くが積極的に県外移設を求めるようになってきたことだ。
 自公政権下では辺野古移設容認派と反対派に割れ、沈黙を守っている人も多かった。
 民主党への政権交代の際、鳩山由紀夫元首相が普天間の県外、国外移設を目指すと言いながら、県内へと逆戻りさせたことが沖縄をまとめることになった。
 「ひねくれた考えかもしれませんが、県民が正々堂々と県外移設を訴えられるようになったのは民主党政権の迷走の結果であり、成果だとも思います」
 比嘉さんの見方にうなずく人も多いのではないか。仲井真弘多知事は復帰40周年を前にしたインタビューで、沖縄に集中する米軍基地の負担について、「政府は今後の10年で公平にしてほしい」と求めた。ほかの県も負担を受け持つべきだ、とも訴えている。
 中国の軍事活動の活発化や北朝鮮の核の脅威など、東アジアは緊張を高めている。米国はアジア重視の姿勢を強め、米中のせめぎ合いは激しくなってきた。
 沖縄を取り巻く国際情勢が複雑になる中、普天間をはじめとする基地問題は難しさを増している。仲井真知事の訴えは基地問題を沖縄だけにとどめず、日本全体で考えるべきだ、とのメッセージではないか。重く受け止めたい。
<負担軽減を急げ>
 比嘉さんは卒業後、沖縄で医師になりたいと考えている。産業を振興し、安心して暮らせる島にするためにも、沖縄の人々が実感できる負担軽減と東アジアの安定を両立しなくてはならない。政府は責任を自覚して、この難題に取り組んでもらいたい。
 私たちも基地問題への関心を深め、沖縄との距離を縮める努力を暮らしの場から重ねたい。

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