気骨のジャーナリスト…中馬清福氏の逝去を悼む

5日、今朝の信濃毎日新聞を見て驚きました。
信濃毎日新聞前主筆の中馬清福氏が11月1日に逝去されたとの訃報です。

主筆を退かれた後、入院治療にあたられていたことは聞いてはいましたが、信州の地で再会できることを信じていました。本当に残念です。

「中馬清福 憲法を語る」…今年2月11日、松本市で催した憲法講演会のタイトルです。県護憲連合と信州護憲ネットが中心となって企画したものでした。
副題は「憲法の光り輝く価値を取り戻すために。気骨のジャーナリストが半生の思いをこめて」。
740名定員の会場に900名を超える市民の皆さんが駆けつけ、真剣な熱気に包まれた講演会が、中馬氏の最後の講演会となりました。
【写真は2月11日松本市内での憲法講演会で】
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中馬氏は、自らの歩みを振り返り、朝日新聞記者時代の沖縄での取材、憲法の師と仰ぐ樋口陽一・憲法学者との出会いなど、「憲法との出会い」を語るとともに、特定秘密保護法や自民党の新憲法草案を取り上げ、立憲主義の重要性を指摘、憲法破壊を許さないために、憲法を暮らしの中に、お茶の間に卸して考えられるような取り組みの重要性を強調されたことが蘇ります。
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「わかったつもりになって話していないか。これでは相手に伝わらない。難しいことですね」…打ち合わせの際に中馬氏が語られたことです。自戒の念を込めつつ、深く思い起こします。

礼儀正しく穏やかで誠実、そして熱い気骨を持った行動するジャーナリスト…中馬清福氏のご逝去に深く哀悼の意を表するとともに、今の時代だからこそ、中馬氏の視座と心がけを心に深く刻みたいと想います。

今年3月23日信濃毎日新聞掲載の『考』の最終稿を引用掲載させていただきます。

考(224)=市民の道徳をつくれないか 現憲法の理念と一致(中馬清福)

 どんな社会にも道義と道徳は必要である。道義とは人が行うべき正しい道、道徳とは正しいことをなすため守り従う規範、と手元の辞書にある。
 道徳? あれ嫌いだ。私を含めそんな人は多い。日本の道徳は明治憲法下、教育勅語で明らかなように、天皇国家の護持を第一として形成されたものだったから当然だろう。
 だが、敗戦でこの国は一新した。当然、新憲法に沿う新しい道徳を構築すべきだった。
 私たちは怠った。そのすきに乗じ、古い道徳を復活させようとする動きが活発化している。
■今も古層が
 戦後早くに新しい道徳の必要を説いたのは、共産主義者で作家の中野重治だった(彼の「五勺の酒」は護憲改憲両派が必読の憲法論だ)。民族道徳樹立は彼の持論で、それをやらない共産党は何だ、という言い方で国民を鼓舞している。
 中野がどんな民族道徳を考えていたかは分からない。ただ、文脈から考えて、道徳は権力者でなく市民がつくるのだ、と言いたかったことだけは分かる。蛇足だが、市民とは、自由にして、かつ社会の構成に責任を持つ個人、あるいはその集まり、と私は考える。
 なぜ、市民が、なのか。
 道徳は「規範」である以上、その良し悪しは規範の中身で決まる。権力者がつくれば上から目線の規範=道徳になるし、市民がつくれば下から目線の規範=道徳が生まれるはずだ。
 上から目線の見本が明治憲法と教育勅語だった。国のあり方と民の規範=道徳は見事に一体化された。いかに徹底した刷り込みだったかは、明治の道徳に郷愁を覚える人が少なからずいることで明らかだろう。
 生誕100年の丸山真男は、「古層」という言葉を使って日本思想を語ったことがある。仮に旧憲法と教育勅語的な道徳をも古層とするなら、それは今も強い力を持っている。
 自民党改憲草案が見本だ。
 天皇は元首にし憲法擁護の義務も免除する、家族はお互い助けあわなければならぬ、人権規定は日本の歴史・文化・伝統を踏まえたものに―などなど、古層を掘り返さない限り、ありえない発想である。
 安倍晋三氏とその周辺はこれら古層にクワを入れ、眠っていた旧道徳を目覚めさせ、生きるための規範=道徳を持てない人びとの胸に火をつけた。中国と朝鮮半島両国の反日ムードがそうした言動に“正当性”を与えた。彼らは燃え、安倍政権の支持率50%超を支えている。
■公共の福祉
 ただ、家族は助けあえという一見、至極当然の言い草も、憲法の条文となって義務化したとき、少子高齢化が進む日本の家庭でどんなことが起きるか。外遊先で、人権の度合いはその国の歴史と伝統に基づく、などと言ったらどんな顔をされるか。私にも想像はつく。
 しょせん上から目線である。とはいえ、安倍氏と同調者にそれを許した責任は、新しい時代の道徳を自らの力でつくろう、とする努力を怠った市民の側にもあるのではないか。
 新しい道徳とは何か。
 例えば「家族は助けあえ」という同じ表現でも、家族倫理をお上が強制するものとは違う。家族―隣近所―町村―府県―国という渦巻き型の助けあい制度を、民官協力で完備して初めて市民の道徳が生まれる。
 市民道徳の根本は、と問われたら「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という日本国憲法前文の一節をあげたい。国家を個人に、自国を自分に、他国を他人に置き換え、読み直してもらいたい。
 もっと具体的に、と問われたら元日の「考」で紹介したマイケル・サンデル教授の「新たな市民権」をあげたい―「公共の利益のために、市民の一員としての責任を持つ。消費者としてではなく、責任ある市民として皆の利益を考える」

 「考」はこれで終わりです。9年間、224回、試行錯誤の連続でしたが、寛大な読者のお力添えでここまで参りました。心から感謝します。
 寄せられた書信は段ボール2箱になりました。これを機に文通が始まった方もいます。各地から招かれてお話をする機会も多かったし、いくつかの市や町には「考」を読む会もでき、信州人が、信州の風土が、大好きになりました。
 主筆は退きましたが、論説顧問としてのご縁は続きます。静養の後、ふらっとご当地を訪れるかもしれません。そのときはよろしくおつきあいください。
20140323信毎『考』