『対コロナ 「戦争」の例えは適切か』…朝日新聞・社説より

5月6日付の朝日新聞が社説で『対コロナ 「戦争」の例えは適切か』を取り上げました。

新型コロナウイルス感染症を終息させる取り組みが、人類の未知なるウィルスとの「戦い」であることを否定するつもりはありませんが、いわゆる「戦争」に例えることに違和感を感じてきた一人です。

「戦争」と表現することで、「同調圧力」を強める効果を発現することに危機感を抱きます。

参考までに転載します。

また、観点は異なりますが、感染防止のための「ソーシャル・ディスタンシング」(社会的距離の確保)を「フィジカル・ディスタンシング」(身体的距離の確保)に言い換える動きが始まっています。WHO(世界保健機関)が改めたものです。

社会的距離という表現だと「愛する人や家族との関係を社会的に断たなければならない」と誤解されかねず、あくまでも物理的な距離を置くだけだと伝えることが狙いとされます。「人と人とのつながりを保つこと」…いわれなき偏見・差別が横行している中だからこそ、大切にしたい視点だと思います。


対コロナ 「戦争」の例えは適切か 2020年5月6日・朝日新聞社説

 国民の生命を脅かし、経済にも大きな打撃をもたらす。その危機の深刻さを訴える狙いがあるにしても、新型コロナウイルスへの対応を「戦争」と例えることに、政治家はもっと慎重であるべきだろう。

 米国のトランプ大統領は「戦時大統領」と名乗り、中国の習近平(シーチンピン)国家主席はこの闘いを「人民戦争」と称した。フランスのマクロン大統領も「我々は戦争状態にある」と述べた。

 確かに、医療現場では、まさに「戦場」のような過酷な光景が繰り広げられている。

 それでも、いま起きていることは、あくまで公衆衛生上の緊急事態であり、それに伴う経済、社会の危機である。武力による国家間の争いなどではもちろんない。

 危機を強調することで自らの求心力を高め、国民の自由や権利を制約する措置にも理解を得たい。そんな思惑を抱く政治指導者もいるのだろう。

 歴史を振り返れば、「戦時」には情報や言論の統制がつきものだ。民主的手続きはないがしろにされ、重要な決定が独断でなされることもある。

 だがコロナ禍を乗り越えるには、できる限りの情報開示と、各分野の専門家の意見を踏まえた透明な意思決定、そして国民の納得ずくでの協力がカギを握る。でなければ、時々のリスクや影響を正確に評価し、適切な対策をとるのは難しい。

 「戦時」となると、国民の団結が有無をいわさず求められ、隊列を乱す者は糾弾される。個々人の立場や事情を慮(おもんぱか)ることも、理を尽くして説得することもなく、批判や排除の動きが広がれば、社会に亀裂が走り、幅広い連帯は失われてしまう。

 立場の弱い人が犠牲を強いられてはいけないし、ウイルスをむやみに「敵視」することが、感染者やその周辺への差別を助長する恐れもぬぐえない。

 ドイツのシュタインマイヤー大統領は先月、国民に向けたテレビ演説で「感染症の世界的拡大は戦争ではない。国と国、兵士と兵士が戦っているわけでもない。私たちの人間性が試されている」と語った。

 互いに協力して事態を克服する道を探るのか、それぞれが孤立し、独走する道を選ぶのか。そう問いかけ、人と人、国と国との連帯を呼びかけた。

 長期化が予想され、出口の見えない危機にあって、複雑な現実を勇ましい言葉で覆ったり、緊張を高めて分断を深めたりしてはならない。それはむしろ、解決への道を遠ざける。

 ひとびとの生命と暮らしを守る確かな行動を促すため、冷静に考え抜かれた言葉こそ、政治家に求められる。

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