県立歴史館・企画展「青少年義勇軍が見た満州-創られた大陸の夢」

8月8日、県立歴史館(千曲市)で行われている企画展「青少年義勇軍が見た満州-創られた大陸の夢」を見学してきました。妻と歴史館デートです。

戦時中の旧満州(中国東北部)への国策移民の一環で、10代の少年を送り出した「満蒙開拓青少年義勇軍」の歴史と実態を紐解く企画展です。

『日本の国策によって満州に対する夢を持たされ、厳しい現実に向き合いつつも懸命に生きた少年たちの姿から、教育の意義や平和を追い求める大切さを考えてみたい』が企画テーマになっています。

満州に駐留していた日本の陸軍部隊、関東軍による満州事変を経て、満州全土を占領した日本軍は1932年に傀儡(かいらい)国家である「満州国」を建国します。当時、世界恐慌の影響で深刻な経済不況に陥り、特に農村経済を支えていた養蚕業が大打撃を受ける事態の中で、1936年に「満州農業移民100万戸移住計画」を国策とし、「満蒙開拓」の美名のもと、疲弊する農村から「開拓団」が募られました。

疲弊した農村の経済の立て直しや食糧増産などを目的にしたものの、背景には「満州国」の支配、防衛といった軍事的な目的もあったことは言うまでもありません。

「開拓」の名のもとに、中国満州の民衆の土地を奪った歴史も忘れてはなりません。

敗戦までに日本全国から約27万人が満州に渡りました。村を挙げて送り出す“分村”や、複数の村が送り出す“分郷”開拓団のほか、14~18歳の青少年で組織された青少年義勇軍も8万人近く送り出されました。

戦況の悪化、ソ連軍の侵攻により、開拓民は逃避行とシベリアに抑留を余儀なくされ約8万人が犠牲になったといわれています。青少年義勇軍も約4分の1、2万人が現地で命を落としたとされます。

長野県は、国策に従い、市町村に人員を割り当て、3万数千人全国最多の満蒙開拓団を送り出した歴史を持っています。7,000人の青少年義勇軍もまた全国最多、信濃教育会により、満濃開拓への「夢と憧れ」が無批判に語られ、学校を通して募集されました。教育界を挙げた強制動員であったといえるでしょう。

下伊那郡阿智村に設立された「満蒙開拓平和記念資料館」の寺沢秀文館長は、「全国的には満蒙開拓団の約3割、長野県の場合には約2割を占める義勇軍のことが戦後あまり語られなかったのは、彼らのことも含め満蒙開拓それ自体が向き合いにくい「不都合な史実」と受け止められてきたからであることは否めない。満蒙開拓は、国内農村などからの「人減らし」であるともに、敵対する北のソ連に対するいわば「人間の防波堤」として旧満州(中国東北部)の国防の一端を担わせるため、国策によって強力に進められた。「開拓」と言いながらその多くは現地の人々の農地や家を結果として奪う形で進められ、その結末として終戦前後、開拓団からも多くの犠牲を出すことになった。この被害と加害の両面を含めて、満蒙開拓の史実を語り継ぐことは二度と同じ犠牲を出さないためにも大切なことである」と指摘しています。

南信州阿智村に平成25年4月オープン 昭和の始めに国策として行われた満州農業移民、満蒙開拓の歴史 日中戦争、満州事変、中国残留孤児、帰国者、平和学習

「開拓」の夢と憧れに胸弾ませたであろう少年たち…。極寒の地で、「お国のため」に尽くす「大和魂」に向かわされた少年たち…。展示されている「青少年義勇軍」の少年たちの親元に送られたはがきや日記を読むにつけ、戦時下で、純粋な少年たちが、戦争の国策に翻弄され、未来が閉ざされてしまう悲しむべき史実の一端とともに、教育の役割の重さを改めて痛感しました。

敗戦から76年、我が国の侵略と植民地支配の加害の歴史、そして国策に翻弄され犠牲となった被害の歴史、この負の歴史を心に刻み、平和を希求し続けたいと願います。

県立歴史館の企画展は8月22日まで開かれています。足を運んでみてはいかがでしょうか。

古代からの信州の歴史を辿る「常設展」も一見の価値ありです。ナウマンゾウが迎えてくれます。