5.15沖縄復帰50年&街角トーク

5月15日は沖縄が本土復帰を果たした日。日本国憲法下への復帰を強く願ったものの、50年がたった今もなお、「憲法番外地」ともいうべき厳しい現実があります。

長野県護憲連合では、復帰50年の節目の年の沖縄平和行進に7名の代表団を派遣しています。基地のない島・沖縄の実現に向け、沖縄県民と絆を強め、本土からも大きなうねりを作り上げたいものです。

基地のない平和な沖縄の実現誓う 復帰50年、那覇で5・15県民大会 - 琉球新報デジタル

社民党の談話、沖縄地元の「琉球新聞」の社説を転載します。

【談話】沖縄の本土復帰50年にあたって

社民党幹事長 服部 良一

  1. 沖縄の本土復帰から50年を迎える。第二次世界大戦末期、沖縄は本土防衛のための「捨て石」とされ、県民の4人に1人が犠牲となる悲惨な戦禍にさらされた。戦後も、1952年4月に発効されたサンフランシスコ講和条約によって日本から切り離され、米軍占領下に残された。米軍占領下の27年間、「銃剣とブルドーザー」による土地の強制接収で米軍基地は拡大され、米軍人・軍属による事件・事故による被害も日常であった。復帰によって「米国の横暴」から脱却できると考えた沖縄の人々は、平和憲法の下の日本への「祖国復帰運動」を繰り広げ、1972年5月15日に日本に復帰するに至ったのである。
  2. 米国との復帰交渉で日本政府は「核抜き、本土並み」の原則を掲げ、沖縄の人々は復帰によって「本土並みの」の人権保障、「本土並み」の生活が出来ると信じた。しかし50年を経て、沖縄は「本土並み」になっただろうか。復帰の年の1人当たり県民所得は全国平均の59・5%だった。2018年度には74・8%に縮まったものの、都道府県ランキングで沖縄の県民所得はほぼ毎年最下位である。
  3. 沖縄県内の米軍専用施設の面積は復帰時に2万7893ヘクタールだったが、2020年までに1万8484ヘクタールに縮小した。しかし集中の度合いでいえば、全国の米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は、復帰の年の58・7%が、20年には70・3%にむしろ上昇している。本土より米軍基地の削減スピードが遅いため、集中度がむしろ増しているのである。
  4. 米軍の横暴な振る舞いによる被害も変わらない。軍用機やヘリの事故や落下物の危険にさらされ、昨年は県の反対を押し切って発がん性が疑われる有機フッ素化合物PFOSが下水に放出された。米軍人・軍属による暴力や性被害も相変わらずだ。米軍優遇の根拠となっている日米地位協定の見直しもにもふれようとしない。
  5. このような中、日本政府は米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を強引に進めている。1995年の少女暴行事件後の県民の怒りに直面して、日本政府は「SACO(沖縄に関する特別行動委員会)」を設置し、96年4月に普天間飛行場の「5年ないし7年以内の全面返還」を表明して事態の収集をはかった。しかし姑息にもこの「返還」は代替施設への移設が前提とされたおり、25年を経た今も実現していない。「返還」の代償として辺野古の海を埋め立てた巨大基地を建設・提供するのではまったく本末転倒だ。ただちに計画を撤回するべきだ。
  6. さらに、米軍基地の整理・縮小を上回るスピードで、自衛隊基地新設・増強が進んでいる。この間、日本政府は尖閣問題等で危機を煽りながら、鹿児島県の奄美大島、馬毛島も含め、沖縄県の宮古島、石垣島などの南西諸島への部隊の配備を進め、米軍と一体となった戦争準備を進めている。もし「台湾有事」となれば、沖縄の米軍基地が最前線の出撃拠点となることは明らかであり、南西諸島が戦場になるおそれは現実のものとなっている。
  7. 復帰直前の1971年11月、琉球政府の屋良朝苗主席(当時)は、政府に「復帰措置に関する建議書(屋良建議書)」を提出しようとした。沖縄の歴史について「余りにも、国家権力や基地権力の犠牲となり、手段となって利用され過ぎた」と指摘し、自己決定権の確立を求めた。しかし国会は建議書を受け取ることすらないまま沖縄返還協定を強行採決した。
  8. 今回、沖縄県は復帰50年にあわせ「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書(新建議書)」を決定し、岸田文雄首相に手渡した。建議書は沖縄に負担を押し付ける基地問題を「構造的、差別的」とし、日本政府に早期解決を求めた。2013年1月に保革の対立を超えた「オール沖縄」勢力がまとめた「建白書」の提案も重い。日米両政府はこうした訴えを真摯に受け止めるべきだ。沖縄を再び戦場とすることがあってはならない。

 復帰50年にあたり、強く訴えたい。

以上

<琉球新報社説>施政権返還50年(10)未来の沖縄 私たちの意思で決める

 県民が復帰に込めた思いは、基本的人権の回復であり、平和憲法の下で「基地のない平和な沖縄」の実現であった。しかし、米国は施政権を日本に返還するが、日本政府の同意を得て沖縄の米軍基地の自由使用権を手放さなかった。
 50年前の5月15日、屋良朝苗知事は記念式典で「沖縄がその歴史上、常に(日米の)手段として利用されてきたことを排除」すると述べた。沖縄県民には自らの未来を自ら決める権利がある。その権利を行使することを誓う日としたい。
 復帰後も沖縄に米軍専用施設の70.3%が集中する。屋良知事は退任の際、記者会見で「基地のある間は沖縄の復帰は完了したとは言えない」と述べた。県職員に対しては、手段として利用されている沖縄は「仮の姿」だと指摘した。では「仮の姿」から脱却するために何が必要か。
 まず、沖縄関係予算を国に委ねる一括計上方式を変更してもらいたい。この方式は国のさじ加減で要求額が増減し、基地を黙認する懐柔策に利用される。他県と同様に自らの力で予算を獲得する方式に改めることで「仮の姿」から脱却する第一歩にしたい。
 地方分権改革によって国と地方の関係は「対等・協力」に改められた。これまで基地を巡る政策に沖縄の意向は反映されなかったが、これからは政策決定過程に沖縄県を参加させるよう求める。
 名護市辺野古の新基地建設は、特定の地域に不公平な負担を押し付けるにもかかわらず、移設決定の手続きに住民が参加していない。地方自治を保障している憲法の理念の無視である。新基地建設反対の民意を無視して新基地建設を強行する政府の姿勢は、民主主義の否定であり、地方主権の侵害である。改憲論議の前に憲法が沖縄に適用されることを強く求める。
 沖縄戦を経験した沖縄は「軍事力で平和は実現しない」と身にしみて知っている。1945年1月、大本営は沖縄を日本防衛のための「前縁」と位置付け「極力敵ノ出血消耗ヲ図」る方針を決定した。県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦は、「本土決戦」に備えるための時間稼ぎだった。
 「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓から県民は「人間の安全保障」を要求してきた。だが、日本は米軍との軍事一体化を強化し、尖閣や台湾有事を想定して自衛隊を南西諸島に重点配備している。これでは過去の大本営方針のように、沖縄が最前線(前縁)となり再び戦争に巻き込まれるリスクは避けられない。
 世界平和に貢献し沖縄と日本の安全保障につながるために国連機関の誘致を実現したい。沖縄の基地を抜本的に減らすには、基地が要らない環境をつくることが肝要だ。沖縄はそのための信頼醸成の場になれる。
 基地のない沖縄を実現し、未来を構想するために人材育成が欠かせない。県に対し今後10年間、教育費を従来の2倍以上とすることを提言したい。これを原資に県立高校までを完全無償化し、県内で大学や高専、専門学校に進む学生には給付型奨学金を支給してほしい。希望する誰もが高等教育を受けられるようにする必要がある。
 こうして育った人材に未来を託したい。例えば、経済の自立を確立するという沖縄の目標はまだ途上だ。復帰後の沖縄経済は基地、公共事業、観光の3K経済と言われた。これからは環境や健康、教育、海洋、交易など沖縄が優位性を有する新たな「K」を育て、観光に続くリーディング産業の確立が鍵を握る。若き人材が先頭に立ってほしい。
 復帰を知らない世代が6割を占める。沖縄人としてのアイデンティティーに誇りを持ちつつも、しまくとぅばを話せる人が減少している。言語の危機は、アイデンティティーの危機である。継承、普及への方策として公教育にしまくとぅばを積極的に取り入れる方策が必要だ。沖縄の現代史をはじめ足元を深く掘れば、未来が展望できるだろう。

街角トーク…市内4カ所で

15日、沖縄復帰50年に触れながら、社民党の「街角トーク」を行いました。参院選に向けた辻立ちの社民党アピール行動です。大通り善光寺下交差点からSBC通り吉田交差点から古牧交差点から善光寺大門交差点の4ヵ所で辻立ち。ドライバーの皆さんや通行される市民の皆さんから手を振って激励をいただきました。力強いです。

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